フェミニズム 〜その大元を辿る〜

 日常的にも様々な場面で人々を左右している「フェミニズム」ですが、皆さんはその大元の意味をご存知でしょうか。
 日本は敗戦後、戦前にあった参政権運動など人権運動の動きは、顧みられる事が非常に少なくなりました。代わりに影響を持ち始めたのが学術的な解釈の「フェミニズム」です。ここには大元の人権運動やその理念とは大いに異なる意味合いが含まれていました。


 この記事では、今日における「フェミニズム」の大きく分けてふたつになってしまった意味合いを整理すると共に、その更に奥にあるフェミニズムの大元となる考え方や重要な人物を紹介します。

 

 

 

フェミニズムの大元となる理念は人権

 まず、参政権は人権である事を意識していない方も多いというところがありますが、女性参政権運動と聞くと「フェミニズム」を思い出す方は多いと思います。
現代の人権の元となる考えは理神論から始まります。

それは西欧の王権神授説からなる階級社会の批判と、平等の個人の意思と理性を基礎とする国作りの理念につながるのですが、その理念が人権です

 

◇平等に個人に備わる理性という思想「啓蒙主義

 国の基礎は市民と位置付けた啓蒙主義は西欧諸国を大きく変化させるほどの影響を及ぼしました。しかし啓蒙主義という言葉は、後に国家間の対立を煽り戦争を引き起こすものとも捉えられていきました。

それは「啓蒙」“Enlightenment”の言葉が、未開の地に知性をもたらすという植民地支配拡大の名目としても掲げられたからです。
 歯止めの効かない植民地拡大競争と大きな戦争の反省としてなのですが、ここに「個人に備わる人権や理性」と「国家規模の利益争いの思惑」との隔たりがあらわになります。

 

オーギュスト・コント社会学

 そこでフランスで生まれたオーギュスト・コントという人物が社会学を創始します。(他にも関係する人物がいますが代表的な人物です)
彼の理神論と啓蒙主義思想の広がりに伴う革命(王や教会から市民に国家運営の権利が移る事)の暴動や混乱を目の当たりにしたことから、啓蒙主義の批判と社会の分析結果から社会運営の理論を構築するその理念と計画を提起しました。
そこから始まるのが社会学です。
そこで取られた手法とは、様々な学問分野の発見を社会の動きの観察に応用させ、その観察結果から社会運営に役立つ理論を構築するというものです。
 その理論の構築には弁証法という、当時の最新かつフランスで重視されていた伝統の路線に沿う数学と論理とを合わせた哲学の手法が用いられました。

 

 

弁証法ダーウィン生物多様性の展開」の社会学的解釈

 社会学では社会が段階的に発展するという概念が用いられました。
その段階的な発達という概念に、ダーウィンの「生物が世代を経て環境などに合わせて変化する」という理論が応用されました。

 

そこで更に、性別が生き物の生態に根本的な影響を及ぼしているという理論が応用され、社会学上のジェンダーという概念が生み出されました。
 この社会学ジェンダー分野において、フェミニズムという単語が使われ始めます。


 

◇歴史、哲学、運動などの社会学的カテゴライズ

 啓蒙主義の批判と共に、社会や人の動きを現象のように捉えて生み出した考えを、弁証法を用いて性別を大前提に理論化するという流れが行われるようになりました。

 

社会に存在する様々な権力、哲学、社会運動、女性による芸術等、過去にあったものも含め様々なものが、このジェンダー概念に基づいて分類されていきました。
(「第○波フェミニズム」「フェミニスト哲学」など)


 その中で、理神論と啓蒙主義から始まる人権運動や女性参政権運動などは男並みの権利(あるいは権力や平等)を求めたものと位置付けられました。


 

フェミニズムの大元とその動き

 大元とは人権運動であり、それは理神論と啓蒙思想から始まる個の尊厳を基礎とした国家運営を求める運動です。
そこではフェミニズムフェミニストという単語が先に来るものではありません。また、名乗らなければいけないというものでも一切ありませんでした。

 その人権運動では様々な提起や活動が行われていました。共通して見られる要素としては概ね以下の通りです。

 ・公平公正さを旨とする
 ・平和主義
 ・個人の理性の体現と、社会を構成する市民としてのあり方(徳目)の重視

 オランプ・ド・グージュの弁護の申し出アメリカのクエーカー、メソジストなど様々な人々による奴隷解放や女性参政権への関わりメアリ・ウルストンクラフトアメリカ独立に関わる人物への影響など、大変多くの分野に見られます。
 暴力性の否定とは、ウィーン体制フランス革命の暴力的な革命運動の広がりを抑えたヨーロッパの国家間の取り組み)の最中に各国で発生した暴力革命運動の反省として、各国市民の間に生まれた暴力性を忌避する空気です。
 市民のあり方としては「徳目」 “Virtue” が国家を担う一人ひとりの重んじるべきものとして挙げられました。また貴族階級と異なる市民の労働の意義からは、労働者の権利や環境の整備の動きへとつながりました。

 このように複合的なものであったわけです。

 前述の通り、そうした動きを現代の「フェミニズム」においては「男並み」の平等を求めたと位置付けられる事が大半なのですが、同じ言葉で大きくふたつに分かれたこの意味合いは、様々な混乱や対立の原因ともなりました。

 

 

フェミニズムの大元 人権理念を更に辿る

 それは16世紀のヨーロッパにあり、その中には以下のような提言が見られます。

 ・女性の教育(性別に左右されない教育)の重要性
 ・女性の結婚の自由
 ・投票による統治者の決定(選挙)
 ・子供の権利
 ・表現、言論の自由
 ・現代の信教の自由に通じる発想
  など

人権運動で見られたような多様な社会的問題へ向き合う態度も見られるのですが、その重要な提起を行った代表的な人物がデジデリウス・エラスムスです。

 

 

◇デジデリウス・エラスムス

 当時ヨーロッパでは、諸国の王や貴族の領土や人々を支配する権力を、カソリック教会が神の代理として認める形で成り立っていました。これが王権神授説です。

 エラスムスはそのカソリック教会の神父であり聖書研究家です。彼の業績は現代の哲学や科学や文献学など様々なものに大きく関連します。
 当時、東ローマ帝国の滅亡による古い文献を携えた学者達のエラスムスの住む西側への避難がきっかけとなり、彼はその聖書や古代ギリシャ哲学の古い文献を調査する事となりました。

 

その調査の中で、解釈に重きを置く学者の説を教会が取り入れていた事が、教会と権力に大きな問題を生じさせているのを確認したのでした。

そこから彼は改革に取り組むことになるのですが、その過程で提起されていたのが上記の提言(その一部)です。
 そのやり方は改革を大上段に掲げるようなものではなく、問題の原因そのものに対し、人間性の尊重、文献の調査、適切な懐疑の態度などをもって取り組むものでした。


 そしてその理念は当時の王侯貴族や教会関係者そして庶民に広く受け入れられ、取り組みが成功するかのように思われましたが、ルターの国家間の利益争いと結びついた宗教改革運動によって達成には至りませんでした。

 

◇権力と結びついた宗教とその大きな弊害 理神論へ

 世界を創造した神が王に支配する権力を与えていると教会が保証する事が、当時の王が持つ支配権力の根拠とされました。

 

その「世界とは何か」という人として自然な探求に対する答えを、教会が聖書から見出さなくては「神の認めた権利の保証」という仕組みに疑いが生じてしまいます。
そのため教会は、科学や宗教そのものに対する新たな見解を異端として排除してきました。
これがヨーロッパにおける古代ギリシャからルネサンスまでの、科学や文化発展の非常に長い停滞を引き起こしてしまいました。

 エラスムスは古い文献から、人間本来に備わる性質を否定する学者達の解釈論を、根拠の提示とバランスを保った表現や人と神への敬意という態度をもって正していきました。否定され続けてきた人間の自由意志の存在も擁護もしています。
 しかし結果は16世紀当時に目に見える改革として成立するどころか、死後彼は教会から異端と見なされてしまうのですが、彼の伝えた理念や著述はおよそ200年後の理神論や人権などへと結びついていきます。

 

エラスムスから理神論、人権思想までの流れ

 理神論とは、神の存在を認めつつこの世界が理性による分析で解明を進める事が可能だとする考えです。
ニュートンがその発見と理念の両面で代表的な人物として挙げられます。科学的発見の重要性とその揺るぎない正確な証明が大きな説得力を持ったのと同時に、彼自身が神を認めつつ理性の力を証明した存在として、理神論の何よりの後押しとなりました。
 その科学的な発見はエラスムスと交流もあった人物による、当時は錬金術や魔術というくくりで捉えられていた探求が基礎となってニュートンの時代まで紡がれたものといえます。
エラスムスの影響は、女性の教育の重要性、魔女狩りへの批判、当時世界に広まりつつあった世界各地での現地人の奴隷化や虐待を批判する動き、国際法への影響など様々なものに及びます。
 その文脈がニュートンの友人でもあったジョン・ロック各個が有する権利という個人が基礎となる国と市民との関連による国家運営の理論と合わせて、理神論と啓蒙主義の時代の方向性に大きく影響しました。
 ここから政治に関与する権利である参政権の、性別による不平等改善への取り組みが女性参政権運動となり、その中で「フェミニズム」は方針を表す標語として扱われだしたものだったのです。

 エラスムスは当時のヨーロッパに古代の優れた哲学と語学上の正確な扱い方を整理しその立ち位置から寛容と平和の精神を体現し、多くの人々に有形無形の重要な理念を伝えたという事ができます。

 

 

 

フェミニズム、人権運動、人間性の尊重という文脈

 15世紀のエラスムスの時代は文芸復興(14-16世紀)の間であり、そこではユマニスムという人間性の尊重と平和を重視する動きがありました。文芸復興の時代は「復活」“Rebirth”を意味する“Renaissance”(ルネサンス)と呼ばれています。

 時代規模でその関連性を見た場合は、エラスムスの死(1536)から理神論や啓蒙思想が高まるまではおよそ100年、そこからフランス人権宣言(1789)やアメリカ独立宣言(1776)などの人権思想に基づく革命や独立運動までおよそ150年、その後ウィーン体制を挟んで女性参政権運動が始まるまではおよそ60年という隔たりがあります。

 

 隔たりが起きるきっかけには権力者同士のいさかいや迫害や戦争などがありますが、その権力者に都合の良い解釈や考えが力を持つ時期でも、重要な理念は断絶する事なく議論され伝えられ続けていたものです。

 

 フェミニズムの大元となる人権運動その人権とは、人間性の重視と人間の理性を重んじる平和の希求が現在まで紡がれる道筋の延長線上にあるものだといえます。
 このフェミニズムの大元を辿る一連の流れと、同じ言葉で別の意味が生じている事を皆さんに確認して頂きたく思います。


 

◇おわりに

 ジェンダー概念などを前提とした「フェミニズム」こそ至上とする方々がいらっしゃるのは存じていますが、そうした方々へ無理にこれを理解せよというものでは絶対にありません。
ただ、フェミニズムに関心を持った若い方々に上記の背景を一切説明せず、それどころか「男並みの平等を求めるもの」であるとか、「フェミニズムは」「フェミニストなら」という言い回しで特定の条件付けをし続ける、専門家と称する方々には私は疑問を持たざるを得ません。

 例えばフェミニズムの代名詞のひとつともいえる「女に生まれるのでなく、女になりゆくのだ」というボーヴォワールの「第二の性」その第二巻冒頭の言葉ですが、これがエラスムスの教育論(仏語訳)からの引用です。
 

 

“On ne naît pas homme, on le devient“

「私たちは人に生まれたのではなく、人になりゆくのだ」

これをボーヴォワール

“ On ne naît pas femme : on le devient”

「女は女に生まれたのではなく、女になりゆくのだ」と引用しました。


(多くの哲学者も参考また引用しており重要な文脈です カント サルトル

 他にもメアリ・ウルストンクラフトの提起にある様々な要素は、人権理念として国を超えて共有されていたものでもあり、それはエラスムスの提唱したものと繋がる文脈でもあります。
このように影響と文脈は文中のリンクからもわかるように確認が可能なものです。

 しかし、現在の日本においては、その重要な文脈と背景がフェミニズムに関心を持った方々へ伝えられているとはいえません。

それどころか、参政権運動などの人権運動や思想や人物などを「男並み」を求めた存在だと解釈し、その特定の概念に基づく解釈こそ正統であるかのような発信が広められているのが現状ではないでしょうか。
 

 

 

 誰それがどうという批判の話ではありません。

 理解ある方々との重要な情報の共有こそ大切なものです。
重要な情報やその文脈を私達の手で大切にしていきましょう。

 

 

(その他、参考資料 参考サイト