「20世紀初めのフェミニスト」は過激であったのか。〜6カ国の女性参政権運動から見る「穏健か過激か」の考察〜
はじめに
今回はあるツイートに対する意見を書きたいと思います。
そのツイートとはこちらです。
冗談でしょ、20世紀初めのフェミニストって女性参政権を訴えるために郵便ポストに火つけたり競馬場で自殺したりしてて、それを男性が逮捕して収監し、刑務所で女性がハンストやったら強制給餌して虐待してたんだけど。今のフェミニストなんてサフラジェットよりずっと平和的ですよ。 https://t.co/xwqDfq1uVQ
— saebou (@Cristoforou) 2020年2月4日
私はこのツイートに対し大きく危惧を抱きました。それは当時のフェミニスト、女性の権利運動に対する重大な誤解を招きかねないからです。
まず初めに「20世紀初めのフェミニスト」という大きい枠組みを主語としながら、その中で解説された要素とは、イギリスにおけるいわゆる「サフラジェット」と呼ばれる運動また行動において発生した事例のみが挙げられているのです。
(爆弾、競馬における疾走中の国王所有の馬に対する身投げなど)
これらはイギリスにおけるWSPU(Women's Social and Political Union)という団体が行った過激な抗議活動と関連して起きた出来事に限られたものです。
みなさんに少しお考え頂ければと思いますが、大きな枠組みあるいはあるテーマ全体を解説する際に、全体の中の一部の要素のみを挙げて全体の性質として説明し、更に「その一部に比べれば分かる」というような論法を行えば、それは全体に対する誤解を招くものだとお分かり頂けると思います。
私は当時の方々に払うべき敬意があると確信をしています。
人権運動である参政権運動(選挙権は人権に含まれます)に携わったのは市民であり、多大な苦労の末にやっとの思いで成立したその権利の一つである参政権を、今私達は当たり前のように享受し行使しているからです。
「私達と同じ市民が戦ってきた様子とその評価」が乱暴なものであったなら、それは同じ民主主義社会の市民の一人として疑問を呈さなければならないでしょう。
過去の方々が未来の人々に平等の権利を贈った事に対し、私達は過去の方々に向け敬意を払いできる限り正確な評価を持つべきでしょう。
今から当時の世界各国、と言ってもヨーロッパのいくつかの国とアメリカそして日本の合計6カ国になりますが、平等の参政権運動の主だった組織をそれぞれ紹介し、その活動の簡単な解説を通じて「過激か穏健か」の議論について考えたいと思います。
イギリス
イギリスにおいては19世紀初めの選挙法改正時に巻き起こった議論より、女性参政権は重要なテーマとされてきました。当時多くの様々な立場の男女がその必要性を唱えています。いくつかの団体がその当時より立ち上げられていましたが、今回は20世紀の女性参政権獲得の節目に関わった主な団体に注目して挙げていきます。
NUWSS(National Union of Women's Suffrage Societies 女性参政権協会全国同盟)
19世紀に存在した団体が前身の組織で1897年に創設されました。1914年には全国に500支部以上、総メンバー数は10万人の規模を誇る団体でした。
【参考サイト The National Union of Women's Suffrage Societies 】
WSPU(Women’s Social and Political Union 女性社会政治同盟)
1903年にNUWSSのメンバーであったエメリン・パンクハーストが立ち上げた組織です。その過激な行動が物議を呼んだ団体であり、そのため、参政権(suffrage)に”まがいもの”あるいは”女性の”という意味の接尾語「ette」を付けた呼称の「サフラジェット(suffragettes)」と新聞社に報道され、その後に彼ら彼女らもそれを自称するようになりました。
メンバーの掛け持ちが確認されており純粋なメンバー数は定かではありませんが全国的組織として成長し、1914年の時点で2000〜5000名に及んだと言われています。
爆弾の使用、女性モチーフの絵画の切り裂き、抗議の自殺などその過激さが注目がいきがちですが、その背景には長年の度重なる議会での女性参政権案の否決から公的な資産の破壊で注目を集めざるを得ないとう発想が生まれ、そしてそれぞれの抗議には論理的な文脈が存在した事が挙げられます。
時間を経ていくにつれ過激さを増していったのは事実ですが、単に暴力的または過激さを標榜したものとは言い切れない部分は注目すべきです。
【参考サイトWomen's Social and Political Union | British organization | Britannica】
Women's Social & Political Union (Suffragettes) 】
WFL(Women's Freedom League 女性自由連盟)
そのWSPUの運営や方向性に反発した人々が分かれて設立されたのがWFLです。過激な手法には反対の立場を取りました。
前述の2つの団体が第一次世界大戦への協力で参政権運動を中止すると発表した際に反対の立場を取り、同時に戦争協力も拒否し平和運動を展開した事が特徴の一つと言えます。
分裂直後にすぐ全国で60以上の支部と4000名のメンバー数に成長しました。
【参考サイト Women's Freedom League 】
AFL(Actress Franchise League 女優参政権連盟)
イギリス(のみならずですが)において参政権運動の団体は非常に数多く立ち上げられました。その中の一団体の紹介に留まりますが、様々な団体の一例としてAFLを紹介致します。
彼女達は女優という立場による国内様々な箇所への移動を活用し、そして演劇という手法を用いてその選挙権運動をアピールしました。
方針としては他のどの参政権運動団体のアピールにも協力するという態度を取りました。それを表すエピソードとしてWSPUのアピールに協力するのはよろしくないのではとアドバイスを受けた際に、私達はどの団体に対しても協力すると返答したという記録があります。
ここから当時のWSPUの過激さがその他の多くの団体とは一線を画したものがあったのだと間接的にうかがい知る事が出来ます。
また第一次世界大戦中には病院やキャンプを訪問する慰問団がAFLの一部で結成されました。
【参考サイト Actress Franchise League】
語り尽くせない程の様々な団体が様々な背景に基づいて結成されました。
皆さんにも是非ご関心をお持ち頂ければと思います。
イギリスの女性参政権運動は前述の団体それぞれ第一次世界大戦の影響を踏まえず語る事はできません。
各団体その多くは様々な思惑や局面を迎えながら戦争協力のために参政権運動を中止しました。しかし結果としてそれが社会への女性参加という明白な証拠となり、またその協力の功績もまた評価され、女性参政権成立への動きが現実味を帯びていきます。
(男性の戦死による人口動態の動きや、遺族として遺産を女性が受け取る事が多数発生した事なども影響しています)
1918年に30歳以上の戸主の女性に参政権が認められ、そして。1928年に男女平等の普通選挙権が成立しました。そしてNWUSSの初代リーダーであったミリセント・ギャレット・フォーセットは普通選挙権成立を見届けその翌年に逝去されました。
【参考サイト (Late 1800s以降)】
イタリア
Comitato pro suffragio femminile (女性参政権委員会)
1904年に設立された団体です。
International Women Suffrage Alliance(国際女性参政権同盟 国際連盟、国際連合とも関連を持ち、現在IAWという名称で今も存続する世界最大規模の団体)という、前述のNUWSSも参加していた国際団体にも参加し、イタリアの女性の政治参加と参政権運動に貢献しました。
ここに参加したアンナ・マリア・モッツォーニという人物が当時のイタリア市民に多くの共和主義、人権概念など多くの思想を紹介し影響を残しています。
【参考サイト(Comitato pro suffragio femminile)Petizione pro suffragio | 】
【参考サイト(アンナ・マリア・モッツォーニ) https://wetheitalians.com/single_post/great-italians-of-the-past-anna-maria-mozzoni 】
CNDI(Consiglio Nazionale delle Donne Italiane イタリア女性評議会)
1903年にICW(International Council of Women 国際女性評議会)の支部として設立された団体です。
1908年にはイタリア女王と全国の数十もの団体が参加するイタリア女性全国会議を主催しました。
イタリアは19世紀のイタリア統一の歴史を念頭に置く必要があります。小国に分かれていたイタリア半島は、フランス革命の余波を受け一度目の革命に失敗しつつ二度目の革命と独立戦争を経て1861年に諸国の合併という形で統一を果たしました。
しかしそれはそれまでの特権階級主導の政治や性別観を残すものとなります。そこで多くの運動家や賛同者が国民国家の形成、つまり人権に基づく平等の市民による社会、民主主義的な社会を求める声と共に女性の政治参加が求められていきました。
これは諸国の女性参政権運動と権利運動に見られるのですが、第一次世界大戦で同じくその活動を中断させます。
その後のイタリアではファシズムが採用され国家方針に市民が従う体制が作り上げられます。女性の地方参政権が途中で認められてはいたものの、男女平等の普通選挙が認められるのは第二次世界大戦後の1945年を待たねばなりません。
(おしなべて言える事ですが男女平等の権利運動は戦争の影響を踏まえる必要があるでしょう)
またモンテッソーリ教育で有名なマリア・モンテッソーリもイタリアの権利運動に大きく貢献しました。
【参考サイト(youtubeの字幕翻訳機能を使ってご覧になってみてください)
フランス
フランスについてはオランプ・ド・グージュについて是非一度ご確認ください。
18世紀の人物ですが、フランス革命後の世界に広がる男女平等の権利運動のはしりとも言える人物です。
【参考サイト【女性】オランプ・ドゥ・グージュ(三成美保) - 比較ジェンダー史研究会】
CNFF(National Council of French Women フランス女性評議会)
1901年に設立された団体です。ICWにも加入しました。
女性による作品の擁護や教育という文化面での提唱や、中絶や相続に関する事など権利面での提唱など様々な分野に取り組んだ団体で現在も大きく活動を続けています。
第一次世界大戦中には戦争協力は表明はせず平和のためのメッセージを発信しています。その戦争の最中も国際連盟や国内政治面への地道は働きかけを行い評価を得ました。
【参考サイト https://www.cairn.info/revue-archives-juives1-2011-1-page-83.htm#
公式サイト(組織の歴史が解説されたページもあります)】
UFSF(French Union for Women's Suffrage フランス女性参政権協会)
1909年に設立された団体です。
この団体は地道にフランスにおける女性参政権運動を続け、議会では下院との結びつきを強くし実際に下院は何度も平等の選挙の実現に向けた法案を可決するに至っています。またイギリスで発生していた過激な手法に対しては批判的な意見を呈しており、平和的な手法を唱えていました。
その地道な活動を経て会員数は10万人以上に上りました。
当時のフランスの女性団体は革命以後に生じた様々な思想や権力闘争、あるいは階級間の認識のズレなどで多くの対立と分裂が起こりました。女性というテーマを主眼にした政治団体も複数存在します。今回は参政権運動に関連したものの中から2つを紹介しました。
フランスは革命や女性の政治運動など大きく盛り上がりましたが、女性の参政権については諸国に比べると比較的遅かったと言えます。それは革命以降の複雑に絡み合った政治、権力、思想の影響が大きいものでした。それがフランス議会の動きに現れてきます。
平等の選挙法はフランス議会で何度も提案されました(戦時中の女性の協力も評価されました)。しかし下院は通過するものの上院での否決が繰り返されます。そして第二次世界大戦を迎え動乱を経て、戦後の1945年にようやく実現する事となります。
現在ではパリテと呼ばれる男女同数を実現させるための仕組みが導入されており、急激に議会内の性別の差を小さくしました。フランスの女性参政権の歴史はこの100年で非常に大きな動きがあったと言うことができます。
ドイツ
ドイツもフランスに似た動きがありました。それは団体の乱立と分裂です。団体活動を認める法律の成立などもその動きに拍車をかけました。
政治思想に基づいた団体が多いものでしたが、参政権運動に注目して2つの団体を紹介します。
Deutscher Verband für Frauenstimmrecht(ドイツ女性参政権評議会)
女性参政権に関する世界的な会合に参加する(代表を出す)ため1902年に設立された団体です。ミナ・カウアー他数名の人物が中心となって設立されました。ミナ・カウアー氏は性産業に従事する女性の福祉を唱え、階級や資産で左右されない政治の実現のためには男女平等の参政権が必要であると訴えました。
ドイツにおける第一次世界大戦の影響として、階級や資産に大きく影響を受けるドイツの選挙法に対し戦争に貢献した男子への選挙権を認める動きが生まれました。
それに対し全国的な戦争協力の表明と活動を行っていた女性参政権運動の諸団体は失望し、連合して参政権運動が再度活発化しました。
そして1917年に議会は男女平等の参政権法案を提起し、1918年にそれは実現する事となります。
Deutsche Vereinigung für Frauenstimmrecht(ドイツ女性参政権協会)
1911年に設立された団体です。上記の団体との違いですが、男女平等の参政権を唱えていた事は同じでしたが、当時のドイツの選挙法における階級差別的な部分に対しては許容していた事が挙げられます。
当時のドイツの各団体は協力体制を模索していましたがその実現は困難だったようです。
しかし第一次世界大戦後の前述の男子のみに対する選挙権を認める動きがきっかけとなりドイツ女性参政権評議会と合併し、そして平等の選挙権獲得へと至ります。
【参考サイト ドイツ女性参政権行使100年 - 21世紀の現在、女性は社会に何を求めるのか? - ドイツ生活情報満載!ドイツニュースダイジェスト ドイツにおける女性参政権(2) | ある年金生活者の学習記録 indiepensiongehen-fのブログ 】
アメリカ
1841年のニューヨーク州セネカ・フォールズにおいて行われた権利集会が、アメリカの男女平等の権利実現の歴史における始まりとされています。
このセネカ・フォールズ会議と「感情宣言」と呼ばれる声明文は、その後の各国の権利運動に影響を及ぼしました。
【参考サイト 声明文 女性実力者の系譜-女性の投票権|About THE USA|アメリカンセンターJAPAN 】
NAWSA(National Woman Suffrage Association 全国女性参政権協会)
2つの団体が合併して出来た団体です。それぞれの団体は1860年代頃から活動を続けるものでした。
スーザン・B・アンソニーという人物が長く中心的存在を務めました。国内で200万人という会員数を誇り、当時のアメリカにおいて最大の団体に成長して参政権獲得の大きな原動力となりました。
【参考サイト National American Woman Suffrage Association | American organization | Britannica https://www.loc.gov/rr/rarebook/coll/043.html 】
National Association of Colored Women (全国有色女性協会)
1896年に設立された団体です。様々な団体がある中でこちらを挙げるのは、アメリカにおける思想や人種的背景の一端を紹介するためです。
メアリー・チャーチ・テレルという人物が初代代表を務めました。彼女はアメリカで初めての大学を卒業した有色人種女性の一人でした。スーザン・B・アンソニーとの交流がありましたが、選挙権を求めるパレードなどでは別々の行進が行われるなど複雑な要素と悲しみに満ちたエピソードがあります。
人種的な差別の要素が解消された参政権が実現するのは、第二次世界大戦後の1965年を待たなければなりませんでした(それまでの憲法では例外的に人種差別を行えてしまう部分や各州の判断に任せるといった部分があり、事実上差別が残る余地があったのです)。
【参考サイト National Association of Colored Women — History of U.S. Woman's Suffrage 】
重要なのはアメリカ全体がそうであったと一概に捉えるのではなく、各団体や各州毎で様々な様相を呈していたという事です。
平等の権利運動は各国それぞれの事情によって極めて特徴深く彩られています。
それは複雑で分かりづらいという意味合いではなく、調べれば調べるほど人という存在が織りなす複雑さと困難に立ち向かう真摯な姿が浮かび上がってくるという意味です。
アメリカでは独立の背景から信仰や人種に関する提唱や運動が盛んに行われていました。その中で女性の参政権運動は一時的に埋もれてしまった様子が見て取れます。
例えば黒人男性の参政権が認められたのは1868年です。その後各州毎に少しずつ女性参政権が認められていきます。
諸国でも見られたように、アメリカでも第一次世界大戦に対する女性の協力が参政権実現のきっかけとなりました。それにより合衆国憲法で認められるようになるのは終戦から二年後の1920年でした。
日本
日本は上記の諸国の動きに比較すると、若干特殊な動きをしているといえます。
実は日本はアメリカのワイオミング州に続いて世界で二番目に女性参政権が実現した国でもありました。
楠瀬喜多という人物で有名な一件ですが、それは彼女の熱心な抗議と当時発布された区町村会法という各自治体に選挙制度の取り決め方法を委ねる法律と合わさって、1880年に一部地域で実現したものです。
ただ残念なことにその4年後、区町村会法は改正され女性は投票することができなくなってしまいました。
その後日本ではいわゆる大正デモクラシー(1910年頃〜)と呼ばれる民主主義運動が活発化し、その普選運動の中で女性参政権運動が盛り上がりを見せていきます。
1925年の普通選挙法が制定されますが、それは25歳以上の男性のみに対し権利を認めるものでした。その事態を受け、多くの人々や団体が女性参政権獲得に新たな動きを見せました。
新婦人協会
有名な人物として平塚らいてう氏が設立に関係している団体です。
1919年から1922年までの短い期間存在していた団体ですが、女性が政治活動をする上で障害となっていた治安警察法の一部改正に影響(議会への陳情)した事で足跡を残すものとなりました。これはその後の女性参政権運動、政治活動の大きなはずみとなるものでした。
婦人参政権獲得期成同盟会→婦選獲得同盟
前述の新婦人協会の流れを組みつつ1924年に発足した団体です。
結成に関わる市川房枝氏はWSPUを知ってはいましたが、過激な手法を取る事はありませんでした。地道に陳情を続けていましたが、女性参政権運動の歴史は各国おしなべて戦争の影響を受けるものでした。満州事変が勃発し婦選運動を続ける事は出来なくなり、そして第二次世界大戦中である1940年に解散する事となります。
(その他各国と同じく政治活動を行った団体が複数ありましたが、女性参政権に関する団体に注目するという事で言及は控えます)
1941年の敗戦後の占領期を経て、GHQの主導により誕生した日本国憲法から参政権の平等が成立する事になります。
普選運動とはすなわちその国の市民として責任と自立に基づいた政治の実現を求めての運動です。それが敗戦により他国の指揮によって日本は普通選挙を実現する事となりました。
それまでの運動に取り組んでいた方々の思いたるや、複雑なものであったのは想像に難くありません。
ただ日本の諸団体の活動は合法的また穏健なものばかりと言ってもよく、むしろ過激派のような事をしないのに治安維持法で活動が制限されているという事に抗議をしていたのが各団体であったと言えます。
そして無産階級の政治進出を防ぐために作られた供託金制度は未だに残されています。これは世界でもまれに見る高額なものであり、男女の平均賃金格差のあるこの状況では明確な女性差別が未だに残されるものだと断言できます。
供託金違憲訴訟は何度か起こされておりますが、ついこの前も原告側(市民側)の敗訴が決まりました。高額供託金は人権侵害といえます。更には重大な女性差別である事はここまでご覧頂いた方には容易にお分かり頂けるかと思います。
しかし筆者は今まで女性差別であるという声を残念ながら耳にした事はありません。
筆者としては皆さんに、高額供託金は重大な人権侵害と女性差別であるという事をご理解頂きたく思います。
結論
以上の事から主に戦前からの地道な政治活動や戦中の協力に対する社会的評価などが各国の平等の選挙権獲得の主な契機となっており、一部を除いて合法的つまり穏健な手法を取っていた事をお分かり頂けたかと思います。
つまり
冗談でしょ、20世紀初めのフェミニストって女性参政権を訴えるために郵便ポストに火つけたり競馬場で自殺したりしてて、それを男性が逮捕して収監し、刑務所で女性がハンストやったら強制給餌して虐待してたんだけど。今のフェミニストなんてサフラジェットよりずっと平和的ですよ。 https://t.co/xwqDfq1uVQ
— saebou (@Cristoforou) 2020年2月4日
この言説は20世紀初めのフェミニストの中でも、イギリスの一部団体の性質のみを挙げたものであり、当時の方々への誤解を生みかねないものであると、実情と照らし合わせてみれば明らかなものでしょう。
そして重要なのは「男女平等の権利運動」そのものが成果を得たという点についてです。当時の方々はあくまでも男女平等の権利を求めたものでした。
当時も過激な手法を用いる事による評価に関する議論は行われていました。しかし、「穏健か過激か」という枠組みだけで全体を評価する事自体は、その目的の理解としては離れていると言えます。
結論としては、「20世紀初めのフェミニスト」は一部を除き穏健で合法的な手法を用いており、それは男女平等の権利を求める人権運動を行うものであった。
こうした認識が妥当であると私は結論と致します。
Twitterにて 〜筆者がマンスプレイニングをしたという誤解について〜
Twitterにて上記のツイートした方に「全体の中の一部であろう」内容の意見をしました所「一部の存在として過小評価」と明言を受けました。なので思わず「ご存じないのでしょうか、サフラジェットはサフラジストの中の(中略)一派を指す…」
という確認の返答をしました。
ご存じないのでしょうか、サフラジェットとはサフラジストの中の過激な行動をする一派を指す呼称です。
— 高橋しょうご (@Shogo_tkhs) 2020年2月5日
「一部」を蔑みの言葉と捉えていらっしゃいますが、当時の人権また選挙権運動において過激な行動が一部のものであったのは明確な事実です。
当時の方々への敬意を踏まえ正確に捉えるべきです。
そこからは予想もしない思いがけない事になりました。
私がマンスプレイニング(男性が女性を見下し解説など行う事)を行ったですとか、専門家を言い負かそうとしてるですとか、あるいはここに書くべきでは無いであろう暴言なども含め多くの非難を受ける事になりました。
私は相手を女性として見下して解説など一切行っていません。解説するならばこの記事のような内容から解説しますし、応答も相手方からのコメントに応じて確認をしたまでです。また相手方の性別も存じ上げません。
そしてこのテーマを扱う上で性別は一切関係の無いものだと信じています。
私を知る人が私に対する罵詈雑言や理不尽な応答を見て傷つかれた事も多いです。私からの発言ではないとはいえ申し訳なく思います。また一方的とも言える私に対する大勢の言い募りを見て、表立って表明出来ないが、共感した、応援しているといった内容の連絡も多数頂きました。
ご理解頂けた方そして応援の言葉を下さった皆様に感謝申し上げます。ありがとうございます。
おわりに
今回私は過去のフェミニストの方々のため、ひいては市民である私達のため、正確な認識や評価が行われる事を心より願いこの文章を書いた次第です。
どうか良識に沿い、当時の大変苦労をなされた多くの方々の真摯な思いや平等の人権、社会を構成する当事者としての市民としての尊厳が守られるよう、事実に基づいた客観的な判断を皆様になさって頂く事を心より深く祈りながら筆を置きたいと思います。